断章三、四
断章三では、まず「直感で判断する習慣のついてる人々」について言及している、これらの人は、「推理に関することがらについて何もわからない」それは「一目で見ぬこうと」して「原理を求める習慣がついてないからである」ということになる。
これと対比して、「原理によって推理する習慣ついている他の人々」は、「直感に関することがらについて何もわからない」、それは「原理を求めようとする」が「一目で見ることなどできないからである」ということだ。
断章四では「幾何学。繊細。」と記した後に、「真の雄弁は、雄弁をばかにし、真の道徳は、道徳をばかにする。」とあり、これが最後の「哲学をばかにすることこそ、真に哲学をすることである。」につながるのだが、それはなぜかというと、「言いかえれば、規則などない、判断の道徳は、精神の道徳をばかにする」とあり、そしてそれは「学問が精神に属しているように、判断こそ、それに直感が属しているからである。」さらに「繊細は判断の分け前であり、幾何学は精神の分け前である。」となる。
何か腑に落ちないのだが・・・・例えば、道徳というものにを考えると、
“獣任瞭仔・・・判断こそ直感・・・繊細は判断の分け前
∪鎖世瞭仔・・・学問が精神に属す・・・幾何学は精神の分け前
だから、道徳には判断(繊細)と精神(幾何学)の2つの立場があり、判断が精神をばかにする。
故に、哲学を取り上げても、哲学をばかにすることが真の哲学である。
全体の流れからすると、この断章四は、繊細の優位性を述べているような構成にも読めるのだが?
(この断章の意味とりは厳しい)
これと対比して、「原理によって推理する習慣ついている他の人々」は、「直感に関することがらについて何もわからない」、それは「原理を求めようとする」が「一目で見ることなどできないからである」ということだ。
断章四では「幾何学。繊細。」と記した後に、「真の雄弁は、雄弁をばかにし、真の道徳は、道徳をばかにする。」とあり、これが最後の「哲学をばかにすることこそ、真に哲学をすることである。」につながるのだが、それはなぜかというと、「言いかえれば、規則などない、判断の道徳は、精神の道徳をばかにする」とあり、そしてそれは「学問が精神に属しているように、判断こそ、それに直感が属しているからである。」さらに「繊細は判断の分け前であり、幾何学は精神の分け前である。」となる。
何か腑に落ちないのだが・・・・例えば、道徳というものにを考えると、
“獣任瞭仔・・・判断こそ直感・・・繊細は判断の分け前
∪鎖世瞭仔・・・学問が精神に属す・・・幾何学は精神の分け前
だから、道徳には判断(繊細)と精神(幾何学)の2つの立場があり、判断が精神をばかにする。
故に、哲学を取り上げても、哲学をばかにすることが真の哲学である。
全体の流れからすると、この断章四は、繊細の優位性を述べているような構成にも読めるのだが?
(この断章の意味とりは厳しい)