高木仁三郎セレクション
本書は岩波現代文庫版のもの。
何故高木氏の著作抜粋が2012年に発刊されたのかは自明で原子力発電の脆さを訴え続けた人であったからだ。
このような文章がある「Aの事故が我々に実感させたもうひとつの重要なことは、我々の依拠する技術と人間の生命の間の頼りない関係という点である。そもそも、Aのような事故は、原発の安全審査のたて前からは、「想定不適当」と言われ、とうてい起こるはずのないものであったし、現在でもそうである。「B国の技術に欠陥があった」という議論の当否は別にして、A原発はB国での安全審査を通った原発であり、その安全審査のやり方そのものは、どこの国でも大同小異である。Aの事故は、どこの国の原発の安全審査でも、起こりえないとして切り捨てられてきた種類のものであり・・・」
Aはチェルノブイリで、B国はソ連なのだが、これがそれぞれ、福島第一、日本でも意味が通じてしまうことが恐ろしい。
著者は、20世紀に生きた人であるのだが、彼が残していった課題は現在も生きているわけだ、しかも事例付きであることが驚くべきことだ。
本書を読んで、私は2つのことを考えた。
一つは、本書は20年以上前の警告であるのに、自分は全く意識していなかったこと、そして、福島での事故についても、実害がないために忘れはじめていること。
二つ目は、国のや電力会社のような大きな組織、大きなプロジェクトはそう簡単には修正できないということ、何故、このような提言があるにも関わらず、レベル7を引き起こしたのか?それは、本書が書かれた当時と今根本的に差がないということであろう。
現在は、再び、原発を稼働させようという風潮が出てきた、経済成長のためらしい。
しかし、当時ですら全人類を40回殺傷できるプルトニウムが作られ、その半減期は2万5千年だという。
あまりにも途方もない数字に、おもえあず思考停止してしまいそうだが、未来のために本当は何をするべきなのか(そう簡単に回答が出ない問題だが)考えていかなくてはならない義務が人間としてはあると思う。
何故高木氏の著作抜粋が2012年に発刊されたのかは自明で原子力発電の脆さを訴え続けた人であったからだ。
このような文章がある「Aの事故が我々に実感させたもうひとつの重要なことは、我々の依拠する技術と人間の生命の間の頼りない関係という点である。そもそも、Aのような事故は、原発の安全審査のたて前からは、「想定不適当」と言われ、とうてい起こるはずのないものであったし、現在でもそうである。「B国の技術に欠陥があった」という議論の当否は別にして、A原発はB国での安全審査を通った原発であり、その安全審査のやり方そのものは、どこの国でも大同小異である。Aの事故は、どこの国の原発の安全審査でも、起こりえないとして切り捨てられてきた種類のものであり・・・」
Aはチェルノブイリで、B国はソ連なのだが、これがそれぞれ、福島第一、日本でも意味が通じてしまうことが恐ろしい。
著者は、20世紀に生きた人であるのだが、彼が残していった課題は現在も生きているわけだ、しかも事例付きであることが驚くべきことだ。
本書を読んで、私は2つのことを考えた。
一つは、本書は20年以上前の警告であるのに、自分は全く意識していなかったこと、そして、福島での事故についても、実害がないために忘れはじめていること。
二つ目は、国のや電力会社のような大きな組織、大きなプロジェクトはそう簡単には修正できないということ、何故、このような提言があるにも関わらず、レベル7を引き起こしたのか?それは、本書が書かれた当時と今根本的に差がないということであろう。
現在は、再び、原発を稼働させようという風潮が出てきた、経済成長のためらしい。
しかし、当時ですら全人類を40回殺傷できるプルトニウムが作られ、その半減期は2万5千年だという。
あまりにも途方もない数字に、おもえあず思考停止してしまいそうだが、未来のために本当は何をするべきなのか(そう簡単に回答が出ない問題だが)考えていかなくてはならない義務が人間としてはあると思う。