110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

野口悠紀雄氏の現在(2021/1/10)のコロナに関するコメント

野口悠紀雄氏の寄稿、コメントには表題を指して批判する向きもあったが、全体的には拝読して損は無いように思う。

今の日本ではコロナ感染拡大を問題視することがタブーになっている

1/10(日) 6:01配信 現代ビジネス
 新型コロナウィルス感染拡大防止のための営業活動規制などについて、社会的合意を形成しにくい。それによって受ける影響が、立場によって大きく違うからだ。
しかし、立場の違いを超えて、どんな場合にも必要とされる「鉄則」がある。それが日本では無視されている。

 

緊急事態宣言はやむをえない
 緊急事態宣言が再発出された。感染拡大を考えれば、やむを得ない措置だ。むしろ、遅すぎたと言える。
 昨年春に、特別措置法の改正が行われた時、その必要性について、私は疑問に思っていた。これが、国家権力拡大の取り掛かりになるかもしれないと考えたからだ。
 日本人には集団志向的な考えを持った人が多いから、自粛を求めるだけで状況は改善するのではないかと期待していた。
 しかし、その後の状況を見て、考えが変わった。
 そうなったきっかけは、ゴールデンウィーク前に、医療崩壊の迫っていた沖縄に多数の観光客が押し寄せたことだ。これをこの欄に書いた(「コロナ長期化、日本政府は『高齢者を見捨てない』と約束できるか?」)。
 そして、「悪魔のプランには反対する」と書いた。
 いまもその考えは変わらない。ただし、実際に生じているのは、「悪魔のプラン」というような大袈裟な考えに基づいた統一的、戦略的行動ではない。もっと単純な自己中心主義の現れだ。
 11月になって感染が拡大したとき、今度こそは行動自粛が広がるだろうと思った。しかし実際にはそうならなかった。
 営業活動などの制限を強化しなければならないのは誠に残念なことだが、人々に行動自粛を呼びかけても徹底できないとなれば、やむを得ないだろう。

 

年齢と基礎疾患の有無でリスクが大きく違う
 新型コロナ対策で合意を得るのが難しいのは、コロナのリスクや経済活動規制から受ける影響が、人によって大きく違うからだ。
 まず年齢と基礎疾患の有無による、コロナリスクの違いがある。若くて健康な人にとっては、単なる風邪かもしれない。だが、高齢者と基礎疾患のある人間にとっては、生命の危機に直結する深刻な問題だ。
 羽田雄一郎参院議員の急死は、基礎疾患を持つ人がコロナにいかに弱いかを示した。これは大きなショックだった。
 ところが、このニュースが人々の行動に影響を与えたようには思えない。昨年春には何人かの有名人がコロナで死亡したことが、人々にコロナの恐ろしさを印象づけた。いま、人々の受け止め方は、この時とは随分違う。多くの人々は、自分は大丈夫と学習したからだろうか? 
 また、コロナに対処するために通常医療が圧迫されることも、高齢者と基礎疾患保有者にとっては大問題になる。
 たまたまこの時期に病状が悪化した人にとって、事態は深刻だ。しかし、若くて健康な人にとっては、医療が圧迫されたとしてもそれほど大きな問題にはならないだろう。

 

所得に対する打撃は人によって大きな違い
 所得に関しても、コロナの影響は、人によって大きな差がある。
 昨年末の日経平均株価は、30年ぶりの高値をつけた。年明けの株価は不安定であるとはいえ、株式投資をしている人の資産は、大きく増えたことだろう。
 他方で、極めて大きな影響を被っている人々がいる。
 まず、非正規雇用者が解雇されている。非正規労働者の雇用が不安定であることは、従来から指摘されてきた。コロナ下でそれが現実化している。
 それだけではない。新しい問題も発生している。宿泊業、飲食サービス業、生活関連サービス業、娯楽業などの対人サービス業の零細企業の経営者や事業主、フリーランサーなどの中には、所得をほとんど失った人もいる。
 また、固定費の負担があるために赤字に陥っている場合が多い。大企業の場合には赤字に陥っても資金繰りさえ続けば、経営者も従業員も所得を大幅に減らさずに済む。しかし零細企業や自営業の場合には、赤字が事業主の収入である場合が多い。そして将来の見通しが全く立たない。
 さらに、仕事の種類によって、コロナ感染のリスクも違う。医療従事者はつねに感染の危険にさらされている。対人サービス業に従事している場合にも、感染の危険がある。

 

合意の形成は難しい。しかし「鉄則」には従うべきだ
 このように、コロナによる影響は、人によって大きく違う。だから、合意を形成できない。どんな問題にも立場の差による利害の差がある。だから合意の形成は、つねに困難な課題だ。
 しかし、コロナに関しては、感染拡大防止と経済活動再開という、相反する目標があり、どちらを重視すべきかという評価が、立場によって大きく違うのだ。場合によっては、正反対になってしまう。
ただし、ここで重要なのは、「立場の違いや利害関係の違いを超えて、どんな場合にも従うべき鉄則がある」ということだ。
 現在の日本では、それが無視されている。それが問題だ。

 

不確実性が大きい場合、最悪に対処する必要がある
 「どんな場合にも従うべき鉄則」の第1は、「不確実性が大きい場合には、最悪のケースに対応しなければならない」ということだ。
 コロナに関しては、大きな不確実性がある。ワクチンが早期に接種され効果を発揮すれば、コロナは早期に収束する。しかし、そうなる前に、感染がもっと拡大する危険もある。どちらになるかで全く違う世界になってしまう。
 この場合に「最悪の事態に対処する」とは、ワクチンの早期普及に期待するのではなく、感染が拡大するケースを考えることだ。感染拡大の防止がまず第一であり、すべてはそれが達成できてからだ。
 感染症への対策は、できるだけ早く行なう必要がある。対策が行なわれる時期によって、規制の大きさが違ってくる。早く規制すれば、限定的範囲での緩い規制ですむ。しかし、遅れれば、広範囲の強い規制が必要になる。
 本稿の冒頭で「遅すぎた」と言ったのは、このためだ。

 

もっとも困窮している人々を援助する必要
 鉄則の第2は、「もっとも大きな被害を受けている人を最優先に助ける」ことだ。
 医療についていえば、高齢者や基礎疾患保有者を優先的に扱うことだ。「悪魔のプラン」と呼んだ「トリアージュ」(命の選別)は、この逆の考えである。
 経済対策についていえば、コロナによって所得が最も大きく落込んだ人たちを集中的に援助することだ。それは、すでに述べたように、対人サービスの事業主やフリーランサーである。
ところが、現実の政策は、この原則に沿っていない。特別定額給付金は、所得が減少していない人にも与えられた。
 勤労者世帯の収入は2020年1月以降、前年度比で増加していたのだから、政策決定時点で、一律給付は必要ないと分かっていたはずだ。それにもかかわらず一律給付が行なわれたのは、政治的な人気取りとしか考えられない。
 GoTo政策については、「『強きを助け、弱きを見捨てる』、これがGoTo政策の本質だ」で指摘した通りだ。
 本当に必要な人に補助が渡ったのかどうかは、大いに疑問だ。旅行する余裕のある人たちと大企業に対する補助となった可能性が強い。
 政治的メカニズムには、常にバイアスがある。最も大きな被害を受けている人を最優先に扱うのは、難しい。とくに、そうした人々がマイノリティである場合には、そうだ。
 現実の政策は、政治的なリワードが最も高い政策に傾きがちだ。コロナ対策でも、そうしたバイアスが生じている。

 

二兎を追ってはならない
 鉄則の第3は、矛盾した政策を行わないことだ。感染拡大防止と経済活動の活性化は、明らかに矛盾する。
 両方を一度に達成しようとすれば、どちらの目標も達成できない。これは、「虻蜂取らず」、「二兎を追うもの一兎をもえず」と昔から言われていたことだ。
 GoTo政策は、本来は感染が終わった後に行われるはずのものだった。しかしそうなる前に開始された。これが感染を拡大したという積極的なエビデンスはないとはいえ、会食によって感染が拡大する可能性が大きいと指摘される一方で会食を促進する政策が行われることが、私には全く理解できない。
 その結果、「マスクをしながら会食をせよ」というような滑稽なメッセージが発せられることになった。
 明確な政策哲学がないために、その時々の状況と政治的圧力に左右され、結局は何の効果もないことになる。
 整合的な政策体系を示し、どちらを優先するかを示すことが必要だ。

 

タブーがあってはならない
 第4に、立場の違いがあるからこそ、自由な議論が必要だ。しかし、いまの日本には、論議すること自体にタブーが感じられる問題がある。
 11月下旬に東京都の新規感染者数が連日500人を超えた。それにもかかわらず、新聞ではほとんど取り上げられなかった。
 「勝負の3週間」と言われたにもかかわらず、コロナ感染拡大を問題視すること自体が、タブー視されているのではないかと感じられた。そして、11月の3連休、全国の観光地は多くの人出でにぎわった。
 いまはオリンピックだ。議論の対象にもなっていない。あまりに大きな利害が錯綜しているからなのだろう。しかし、そうであるからこそ、開催の是非について、率直な議論がなされるべきだ。
野口 悠紀雄(早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問)