介護者は便利屋ではない
普段から思っていることに、「子育て、家事、そして介護した経験のない人の、介護はしたくない」ということがある。
別のブログで書いたことはあると思うのだが、こういう経験のない人が、被介護者になると、介護者が何を嫌がるのか、全然わからないと思うからだ。
だから、こういう人は、はじめは、自分勝手にコールして、一応表面的には、すまなそうな顔をして、何かをやってもらうだろう、当初はそうだろうと思う。
しかし、ほどなく傲慢になってくる、これは、私と母親の間ではいまのところ事例がないので、また聞きだが、すぐ来ないと言って怒りだすなどということもあるようだ。
しかし、それでも10年以上やっていると、自分の母親は家事も子育ても介護(私に比べれば全然短いが)もしてきているので、まだ良い方なのだが、それでも、これは、ひどいと思う時がある。
被介護者は、だんだんその状況に慣れてくる、たまたま、ひどい要請をしても、介護者の機嫌が良くてやってくれたことも、そのうち、当たり前のこととして、自分に有利に解釈しだす。
実は、介護と被介護者の関係は慣れあいにはならない状況、すなわち、毎回、新しくはじめることと考えるくらいで、丁度良いと思うのだが、人間はそこまで達観はできない。
そう、被介護者が、慣れていくと、介護者を便利屋として使うようになる。
ひどいときは、介護者を、罵倒したり、譴責したり、暴力を奮ったり、する人もいるらしい。
まぁ、認知症でそういう素行になる人もいるのだが、そういう人は原因もはっきりしているし、それなりに対応(施設に(たたき)入れるとか)するものだが、そういうことがない「被介護者」はとても厄介な存在になると思うし、ディサービスやショートステイに行くと、そういう人をお見かけする。
いまもそうだが、これからの高齢化社会、介護になじまない高齢者をどうするのかが今まで以上に問題になってくるだろう。
まぁ、すごい金持ちで、毎月百万円単位でヘルパーを利用するような家は、傲慢でも良いと、庶民の私は思うのだが(百万円使っているかは不明だが、そういう家が近くにある)、そうでない家、お金もないので、家族が見なければならないようなところは、要注意だと思う。
そういう自分はこうはなりたくないと、今は、思っているが、加齢は、考え方を変えてしまうこともあるので、あくまで、今のところの意見だということにもなろう。
20年後、果たして、私は、いるのだろうか?