110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

現代批評の遠近法(竹田青嗣著)

 本書は1989年河出書房新社刊「夢の外部」を底本としたもの、1998年講談社学術文庫版。

 竹田氏の著作は、哲学の入門書でお世話になっているが、本書は、文学、そして文学批判、政治といった話題に対する、氏の思考(批評)という形体をとっている。

 第一部「Ⅰ苦しみの由来」として括られた幾つかの文章は「在日」という視点からの実存についての考察で、哲学思想を鋭く説く氏とは、まったく別の側面を見ることができる、そして、それは第三部「Ⅲ問題としての昭和」での「天皇性」の批判へと結びつくところがある。

 ここでは、奇しくも先々回にここに上げたサイードと相互に補完できるような文章に出会った。

 まずは、本書「美的体験の意味について」より
 ・・・思想や芸術やそういった"文化"的世界からなにかをつかみとろうとする努力は、すくなくともそこから<ほんとう>のもの、ある絶対感情の支えとなるようなものをつかみとろうとする努力は、意味を失ってしまう。・・・
 ことのありようは、はっきりしている。わたしたちは一般に、文学や音楽やその他の諸ジャンルをひとつの<世界>として扱い、その<世界>を知悉し、その<世界>について自在に語れるように努力することで、ようやくその<世界>に属する人間の仲間入りをする。この努力は、ある意味でわたしたちが文学や音楽に対して向けていた絶対感情を、いわば相対関係へと"解放"する。だが同時にそのことは、わたしたちのこの<世界>に対する態度に、ひとつのひそかなニヒリズムを滲ませることになる。

 そして、サイード「知識人とは何か」より
 たとえば文学研究という、わたしがとくに関心を寄せてきた分野では、研究が専門的になるということは、形式的な技法のみ関心を寄せ、文学形成のいかなる現実的経験が実際に関与したかを考える歴史的意識のほうを、なおざりにすることを意味する。研究が専門的になればなるほど、芸術なり思想なりをつくりあげるときのなまなましいいとなみは見失われてしまう。いきおい、あなたは非人格的な理論なり方法しか頼ることができず、知識人とか芸術を、一連の選択や決断、一連の関与と連帯の産物というふうにみることができなくなる。文学の専門家であるということは、往々にして、歴史や音楽や政治にはまったく疎いという意味になる。そして、いよいよ専門知識をたっぷり仕込まれた文学知識人にでもなろうあかつきには、あなたは、ただただ従順な存在となり、文学研究の分野における領袖と呼ばれる学者たちの顔色をうかがい、彼らのお気に召さないらしいものを、すべて排除してしまう。あなた自身の感動とか発見の感覚は、人が知識人となるときには絶対に必要であるというのに、専門的知識人になると、すべて圧し殺されてしまう。・・・・

 偶然だが、面白い発見であった。