110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

断章100

 この「パスカル」という項目では、パスカル著作「パンセ」の各断章を紹介し、手前勝手な注釈をしている。
 もし、あなたが「人間中心主義」ならばモンテーニュを読むがいい、パスカルは自然科学の筆頭でありながら、そこにはいないのだ、そして、私は、そういうパスカルが好きなのだ。

 断章100は「自己愛」と始まる、これは最近の自分のテーマでもあるので興味のあるところだ。
 さて、本断章は全文取り上げたいのだが、いささか長いので抜粋となる、素敵な断章だ。

 まず、自己愛とは「自己愛とこの人間の『自我』との本性は、自分だけを愛し、自分だけしか考えないことにある」とする、しかし「この自我はどうしようというのか。彼には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨に満ちているのを妨げるわけにいかない」のだ。
 そして「真理」はその自分の欠点を暴きだすものなので、これに対して憎しみを持つという、しかし、その憎しみの対象=真理は絶滅できないので、「それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言いかえれば、自分の欠陥を、自分に対しても他人に対しても、覆い隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである」・・・私はパスカル側で考えているつもりなのが、この断章の鍵は「真理」というものの存在が立証できるかである(たとえば、いじめの問題について「いじめ」は悪いということが真理ならば。それは「堪えられない」ことだから「隠す」という図式がなりたつ)。
 だから「たしかに、欠陥に満ちていることは、悪いことである。しかし、欠陥に満ちていながら、それを認めようとしないのは、なおもっと悪いことなのである。なぜなら、それは、その上にさらに、故意のまやかしを加えることになるからである。」
 自分の欠陥を見せないふりをするという欺瞞とともに「われわれが彼らをだまし、われわれがそれに値する以上に彼らから尊敬されたいと願うのも正しくないわけである」・・・なるほど、「値する」という言葉が効いている。
 「したがって彼らが、現にわれわれがもっている欠点や悪徳ばかりを発見しても、彼らはわれわれに対して悪いことをしていないのは明らかである」、人間には「欠陥と悲惨」があるからだね、だから、彼らは「欠点を知らずにいるという悪からわれわれを救い出す助けをしてくれているのであるから、彼らはむしろわれわれにいいことをしているのも、明らかである」。
 「以上のような気持ちこそ、公正と正義とに満ちている人から生ずべきものである。ところが、それとは正反対の構えが見られるわれわれの心について、いったいなんと言ったらいいのだろう。なぜなら、われわれの真実と、それをわれわれに言ってくれる人たちを憎み、彼らがわれわれに有利なように思い違いをしてくれるのを好み、そしてまた、われわれが現にそうであるのとは別のものとして彼らから評価されたいと願っているのは、ほんとうではなかろうか」。
 そして、次の文章は違和感を持つ方もあろう、「ここに私をぞっとさせる証拠がある」として、カトリックはただ一人の人には自分の罪を告白することを「強いる」、その一人だけには「心の底をさらけだし、自分をあるがままに見せることを命令する」しかし「人間の腐敗ははなはだしいので、この定めさえ、なお厳格すぎると考える。そしてこのことが、ヨーロッパの大部分をして、教会に反逆させたおもな原因の一つである」、この文章などは宗教観が強く違和感があるが、もし、自分に欠点があるならば、それを自分で現実的に認識するということは必要であり、冒頭の自己愛の考え方からしても、それをなおざりにすると、自分に都合の良い考えに陥ってしまう可能性があることは間違いが無い、「世界にひとつの花」というお題目は良いと思うが、その反面、自分欠点も良く認識することが必要であろう。
 「人間の心は、なんと不正で不合理なことだろう。すべての人に対して何らかの方法でそのようにしても正しかったであろうことを、一人の人にするようにさせられるからといって、それを悪く思うとは。なぜなら、全ての人たちをだましていることが、正しいとでもいうのだろうか」
 「真実に対するこの嫌忌には、程度の差がある。しかし、それは慈愛と切り離せないものであるからである。例のまちがったこまやかさもそうである。そのために、他人を叱らなければならない立場にある人々は、相手の気にさわらないように、多くの回り道をしたり、手心を加えたりしなければならなくなる。彼らは、われわれの欠点を小さくして、それを許しているように見せかけ、ほめことばと、愛情と尊敬のしるしとをそこに混ぜなければならない。こういうことをみなやっても、この薬は自己愛にとって苦いものであることに変わりはない。自己愛はそれをできるだけ少なく飲もうとし、しかもいつもまずいと思いながら、そして多くの場合、それをくれる人たちに対してひそかな恨みをいだきながら飲むのである。
 そういうわけで、もし人がわれわれからよく思われたほうが得であるという場合には、その人は、われわれにとって不愉快だとわかっているような世話をやくことを避けるという現象が生じる。その人は、われわれがそう扱ってもらいたいと思うとおりに扱ってくれる。われわれが真実を憎むので、それを隠してくれる。お世辞を言ってもらいたいので、お世辞を言ってくれる。だまされたいので、だましてくれる。」
 「そのために、世の中での地位が、運よく上がるたびに、それだけわれわれを真実から遠ざける結果になるのである」・・・これは、なんとなく頷ける「政治家とかお役人って奴は現実を見ていない」という印象とかね。
 これを敷衍すると、社会の中核にいる人々が、自分に不愉快なことを聞きたくない世の中は、まやかしの世の中となる、本断章では、王政や上流階級という当時の時代感覚で記されているが、まぁ、権力はどの時代でも不変だから、今も同じようなことはあるはず・・・と、少し、端折って結論へ。
 「したがって人間は、自分自身においても、他人に対しても、偽装と虚偽や偽善であるに過ぎない。彼は、人が彼にほんとうのことを言うのを欲しないし、他の人たちにほんとうのことを言うのも避ける。正義と理性とからこのようにかけ離れたこれらすべての性向は、人間の心のなかに生まれつき根ざしているのである」

 性悪説である、それも根深い。
 教育家や心理学者などは本断章にたいしての批判ができることだろう。
 でも、何か捨てきれない真実があるように思える、どうも世の中きれいごとが表面にあって、その裏が悲惨な、まやかしの世界なのではないかとも思うのだ。