断章97~99
この「パスカル」という項目では、パスカル著作「パンセ」の各断章を紹介し、手前勝手な注釈をしている。
もし、あなたが「人間中心主義」ならばモンテーニュを読むがいい、パスカルは自然科学の筆頭でありながら、そこにはいないのだ、そして、私は、そういうパスカルが好きなのだ。
断章97は、「一生のうちでいちばん大事なことは、職業の選択である」と始まる、そして「ところが、偶然がそれを左右するのだ」と続く、その根拠に「習慣」ということを指摘する、すなわち「習慣が、石工、兵士、屋根屋をつくる」とある。
「人は、子供のときにこれこれの職業がほめられ、それ以外のものはすべて軽蔑されるのをさんざん聞かされたために、それにひきずられて選択する。なぜなら、人は元来、徳を好み、愚をきらうものなので、・・・これらの言葉(職業についての様々な意見)がわれわれの心を動かすのだ」ただ「人がしくじるのは、適用に際してだけなのである」
この「習慣というものは実に偉大なものなので、自然がただ人間としてしか作らなかったものから、人々はあらゆる身分の人間を作り上げたのである。なぜなら、ある地方はすっかり石工、他の地方はすっかり兵隊等々といったようなことがあるからである。もちろん自然はそんなに一様ではない。してみると、そうさせたのは習慣である」・・・自然は、知らないうちにごたまぜになる、もし、人の手が入らなければ、上野公園にあれだけ整然と桜が並ぶはずが無い、あれが自然だと言う人は、どこかで、勘違いをしているのだ。
だからその後に「もちろん自然はそんなに一様ではない。してみると、そうさせたのは習慣である。なぜなら習慣は自然を強調するからである。しかしまた自然が習慣にうち勝ち、善悪を問わずあらゆる習慣に反して、人間をその本能のうちにひきとどめることもある」
自然災害としての、大地震を例に出そうとしたが、そういう意味ではなさそうだ、いわゆる「習慣=文明」から、外れること、抽象的だが「芸術」などがその範疇だろうか?
パスカルの立ち位置は、あまり人間中心ではだめだよ・・・ということだ。
断章98は、「誤りに導く先入観」とはじまる。
「すべての人が手段についてだけ熟慮して、目的についてそうしないのは、嘆かわしいことである。各人は、それぞれの職務をどういうふうに果たそうかということを考えている。しかし、その職務、そして祖国の選択ということについては、運命がそれをわれわれにあてがってくれるのである」
これは、断章97とも関連しているようだ、手段とは職業そのものを指し、目的とは「しかし、その職務・・・」の部分を指していると言えよう。
その後の「あんなに多くのトルコ人、異端者、異教徒たちが、おのおのそれが最善だという先入観をふきこまれたという理由だけで、彼らの父祖の生き方を踏襲しているのは、かわいそうなことだ。まさにそのことが各人に・・・」と続く。
そして「そういうわけで、未開人たちにとっては、プロヴァンス州などは用がないのだ」と、突然のレトリックに驚く、これは訳注に、モンテーニュのエセーからの引用で、「どんなよい土地でも、知らぬ者には無縁だという意味であろう」としている。
すなわち、もっと良い生き方があるだろうに、父祖の習慣に拘泥するということであろうか?
断章97とともに、現在の職業間とはすこし異なる、そして、現在の職業(暮らし向き)が良いのか、はたまた、親の背中を見て育つ昔の方が良いのか、は賛否わかれると思う。
断章99は「意志の行為と、その他のあらゆる行為とのあいだには、普遍的で本質的な違いがある」と始まる。
「意志は、信仰の主な器官の一つである。といっても、意志が信仰を形づくるからではなく、事物はそれがどの面から眺められるかということによって、真ともなり、偽ともなるからなのである。意志が、ある一つの面のほうを、いま一つの面よりも好むと、その見たくないほうの面のさまざまの特質を精神が考慮しないように、精神をそこからそらしてしまう。そこで精神は、意志と一つになって進み、意志の好きなほうの面を眺めるために立ち止まる。このようにして精神は、そこで自分が見るところによって判断するのである」(全文)
この断章は完結しているのだろうか(断章からなぁ)?
意志は、自分の好むほうを見てしまう傾向にあるというのが後段の説明だが、自己解釈として、意志が信仰の器官であるならば、信仰がその意志を(善いほうに)統御することができる・・・という考え方が根底にありそうだが、いかが?
そうしないと、「信仰」という言葉があるのは何故?という疑問が残る。
もし、あなたが「人間中心主義」ならばモンテーニュを読むがいい、パスカルは自然科学の筆頭でありながら、そこにはいないのだ、そして、私は、そういうパスカルが好きなのだ。
断章97は、「一生のうちでいちばん大事なことは、職業の選択である」と始まる、そして「ところが、偶然がそれを左右するのだ」と続く、その根拠に「習慣」ということを指摘する、すなわち「習慣が、石工、兵士、屋根屋をつくる」とある。
「人は、子供のときにこれこれの職業がほめられ、それ以外のものはすべて軽蔑されるのをさんざん聞かされたために、それにひきずられて選択する。なぜなら、人は元来、徳を好み、愚をきらうものなので、・・・これらの言葉(職業についての様々な意見)がわれわれの心を動かすのだ」ただ「人がしくじるのは、適用に際してだけなのである」
この「習慣というものは実に偉大なものなので、自然がただ人間としてしか作らなかったものから、人々はあらゆる身分の人間を作り上げたのである。なぜなら、ある地方はすっかり石工、他の地方はすっかり兵隊等々といったようなことがあるからである。もちろん自然はそんなに一様ではない。してみると、そうさせたのは習慣である」・・・自然は、知らないうちにごたまぜになる、もし、人の手が入らなければ、上野公園にあれだけ整然と桜が並ぶはずが無い、あれが自然だと言う人は、どこかで、勘違いをしているのだ。
だからその後に「もちろん自然はそんなに一様ではない。してみると、そうさせたのは習慣である。なぜなら習慣は自然を強調するからである。しかしまた自然が習慣にうち勝ち、善悪を問わずあらゆる習慣に反して、人間をその本能のうちにひきとどめることもある」
自然災害としての、大地震を例に出そうとしたが、そういう意味ではなさそうだ、いわゆる「習慣=文明」から、外れること、抽象的だが「芸術」などがその範疇だろうか?
パスカルの立ち位置は、あまり人間中心ではだめだよ・・・ということだ。
断章98は、「誤りに導く先入観」とはじまる。
「すべての人が手段についてだけ熟慮して、目的についてそうしないのは、嘆かわしいことである。各人は、それぞれの職務をどういうふうに果たそうかということを考えている。しかし、その職務、そして祖国の選択ということについては、運命がそれをわれわれにあてがってくれるのである」
これは、断章97とも関連しているようだ、手段とは職業そのものを指し、目的とは「しかし、その職務・・・」の部分を指していると言えよう。
その後の「あんなに多くのトルコ人、異端者、異教徒たちが、おのおのそれが最善だという先入観をふきこまれたという理由だけで、彼らの父祖の生き方を踏襲しているのは、かわいそうなことだ。まさにそのことが各人に・・・」と続く。
そして「そういうわけで、未開人たちにとっては、プロヴァンス州などは用がないのだ」と、突然のレトリックに驚く、これは訳注に、モンテーニュのエセーからの引用で、「どんなよい土地でも、知らぬ者には無縁だという意味であろう」としている。
すなわち、もっと良い生き方があるだろうに、父祖の習慣に拘泥するということであろうか?
断章97とともに、現在の職業間とはすこし異なる、そして、現在の職業(暮らし向き)が良いのか、はたまた、親の背中を見て育つ昔の方が良いのか、は賛否わかれると思う。
断章99は「意志の行為と、その他のあらゆる行為とのあいだには、普遍的で本質的な違いがある」と始まる。
「意志は、信仰の主な器官の一つである。といっても、意志が信仰を形づくるからではなく、事物はそれがどの面から眺められるかということによって、真ともなり、偽ともなるからなのである。意志が、ある一つの面のほうを、いま一つの面よりも好むと、その見たくないほうの面のさまざまの特質を精神が考慮しないように、精神をそこからそらしてしまう。そこで精神は、意志と一つになって進み、意志の好きなほうの面を眺めるために立ち止まる。このようにして精神は、そこで自分が見るところによって判断するのである」(全文)
この断章は完結しているのだろうか(断章からなぁ)?
意志は、自分の好むほうを見てしまう傾向にあるというのが後段の説明だが、自己解釈として、意志が信仰の器官であるならば、信仰がその意志を(善いほうに)統御することができる・・・という考え方が根底にありそうだが、いかが?
そうしないと、「信仰」という言葉があるのは何故?という疑問が残る。