日本憲法思想史(長尾龍一著)
本書は講談社学術文庫版(1996年初版)で読む。
日本憲法について、戦前戦後の思想を考察するのが本書の目的。
個人としての思想については、穂積八束、上杉慎吉、美濃部達吉、マッカーサー。
そして、少しひろい問題意識として、明治憲法と日本国憲法についてのいくつかの論考がある。
本書を読んでみると、憲法に関する考え方でも多様な考え方があることがわかる。
そして、いわゆるラベルとしての「明治憲法」の全てが悪いのではないということもできるし、現在まで続く「日本国憲法」が、「ワイマール憲法」に酷似していることが指摘される。
ワイマール憲法は、その後ナチス政権に移行する前提であり、そういう意味では、この両者の比較も興味深いところがある。
単純に言ってしまえば、その時々の社会状況など外部環境の影響を受けるものであるということであろうが、ひとつの思想を著した憲法の解釈が、まったく別の道、歴史を作るというのは、そもそも、歴史ということの個別性、一回性を了解したにしても、感慨深いものである。
そして、マッカーサーの思想は、やはり、日本という国にとってひとつの奇跡であったのであろう。
しかし、その奇跡に甘んじたが、もしかすると、現在の政治思想的な混迷に陥ったひとつの要因であるかもしれないと考えると、常々、使い古された言葉であるが「諸行無常」ということを思わずにはいられない。
現在の日本は未曾有の危機に立ち向かうことになると思うが、逆に、これを乗り切ることが出来れば(これには数十年という時間が必要だろうが)、その先には、新たな光明を見出すことが出来るだろ。
さて、本書とは関係ないことだが、政治というとカエサルを思うのだ。
ローマの共和制の腐敗状態を悲観して、騒動を起こし、皇帝制の基盤を作ったということ、言い換えると、民主制から独裁制へ統治方法を(ある意味)戻したということ、そして、その後もローマ帝国(帝国主義だが)を拡張したこと、この一連の事件をどの様な評価をするべきなのだろうか?
問題の論点を変えてみると、危機的な状況のときの指導者(指導層)とは、どのような形態を撮るべきなのか、そんなことを考えてしまうのだ。
(財政赤字を適正な状態までに、ある程度の短期間で達成するには、どうすれば良いのだろう?)
日本憲法について、戦前戦後の思想を考察するのが本書の目的。
個人としての思想については、穂積八束、上杉慎吉、美濃部達吉、マッカーサー。
そして、少しひろい問題意識として、明治憲法と日本国憲法についてのいくつかの論考がある。
本書を読んでみると、憲法に関する考え方でも多様な考え方があることがわかる。
そして、いわゆるラベルとしての「明治憲法」の全てが悪いのではないということもできるし、現在まで続く「日本国憲法」が、「ワイマール憲法」に酷似していることが指摘される。
ワイマール憲法は、その後ナチス政権に移行する前提であり、そういう意味では、この両者の比較も興味深いところがある。
単純に言ってしまえば、その時々の社会状況など外部環境の影響を受けるものであるということであろうが、ひとつの思想を著した憲法の解釈が、まったく別の道、歴史を作るというのは、そもそも、歴史ということの個別性、一回性を了解したにしても、感慨深いものである。
そして、マッカーサーの思想は、やはり、日本という国にとってひとつの奇跡であったのであろう。
しかし、その奇跡に甘んじたが、もしかすると、現在の政治思想的な混迷に陥ったひとつの要因であるかもしれないと考えると、常々、使い古された言葉であるが「諸行無常」ということを思わずにはいられない。
現在の日本は未曾有の危機に立ち向かうことになると思うが、逆に、これを乗り切ることが出来れば(これには数十年という時間が必要だろうが)、その先には、新たな光明を見出すことが出来るだろ。
さて、本書とは関係ないことだが、政治というとカエサルを思うのだ。
ローマの共和制の腐敗状態を悲観して、騒動を起こし、皇帝制の基盤を作ったということ、言い換えると、民主制から独裁制へ統治方法を(ある意味)戻したということ、そして、その後もローマ帝国(帝国主義だが)を拡張したこと、この一連の事件をどの様な評価をするべきなのだろうか?
問題の論点を変えてみると、危機的な状況のときの指導者(指導層)とは、どのような形態を撮るべきなのか、そんなことを考えてしまうのだ。
(財政赤字を適正な状態までに、ある程度の短期間で達成するには、どうすれば良いのだろう?)