110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

<民主>と<愛国>(小熊英二著)

 本書は新曜社刊行のもの(初版は2002年)
 すでに存在しないんだが「SEALDs」というのが胡散臭かったのだが、特に憲法9条に関しては幅広い年齢層を獲得したことが少し気になっていた。
 そういう絡みになってしまうのだが、本書を読んで、改めて護憲運動、それも60年安保闘争の、似てるようで異なる事象だったのかなと思ってしまった。
 SEALDsに賛同したある程度年齢の高い層はこの60年安保闘争になんらかの影響を受けていたのではないのかと予想する。
 そして、私が生まれる前に発生したこの運動が特異な「民主主義運動」であったらしいのだ。
 しかし、著者はこう総括する
 1960年の安保闘争は、戦後日本の進歩派が「愛国」や「民族」といった言葉で表現していた心情が、最大にして最後の噴出をみた事件だった。
 為政者(岸・安部)と民衆の対立という図式は、イメージ的には似ているが、その実は異なったようだ。

 本書では、その後「べ平連」にも言及し、ここでは
 戦後日本の「ナショナリズム」と「公」のあり方を模索する、一つの軌跡を残していたのである
 と総括している。

 昭和30年代くらいに生まれた私はこういう話には興味があり、今まで意識してこなかった鶴見俊介や小田実などの著作をいまさらながら追いかけてみようかと思ってしまった。

 ただし、今も存在するこういう問題に敢えて興味を持つ年代層はもう少なくなっているのではなかろうか?

 ちなみに、本書を読んでいて、いやというほど思い知ったのは、年代層別の思考のギャップとその排他性だった。
 結論で著者が引用した江藤淳の記述が今も主題を変えて横たわっているような気がするのだ。
 戦争の善悪はさておいて、負けたおかげで日本は満州を失い、朝鮮、台湾を失った。狭い国土に人口が過剰で、生存競争はますます激しい。もし旧世代の指導者がより明敏であり、協力した知識人たちがより勇敢で利害に聡く、国際情勢の前途に見通しがが利いていたなら、今日の青年層は活力のやり場にとまどい、将来の立身に希望を失うこともなかったであろう。自分たちの将来をめちゃめちゃにしてしまった大人たちは、「責任」を感じて引き下がり、早く死んでしまうほうがよい。そうすればポストもあくであろうし、出世もも今よりは楽になる。・・・(中略)財産がなくなり、希望が喪失してしまったのは自分たちが悪いからではない。大人が愚鈍だったからだ。その尻をひきうけさせられてたまるものか。しかるに彼らは一向に「責任」をとろうとはせず、かえって自分たちの抑圧者としてたちあらわれている。糾問されるべきは-「悪」を代表するのはむしろ彼らであって、新世代こそが純潔と正義を代表している。おそらく、これは今日の青年層の間に多少とも共通した感情だろう。
 1959年の文章ということだが、例えば「GDPは中国に抜かれ、長期にわたり低成長にさらされ、国の借金は1000兆円を超える、将来を担う若年層は少なく、高齢者の比率は増加していく、もし旧世代の・・・」などと書き換えても使えそうなところが恐ろしいところでもある。
 でも、冷静に読むと、この文章はおかしいよね。
 こういう風に使い回しができてしまうところが大きな問題だよね、江藤淳も確信犯であったのではなかろうか?この前後の文章を読んでいないのでなんともいえないけれどもね。

 そうそう、本書は、読んで損のない本だ。
 いろいろとごたくは書いたがそれはすべて無視していただいて結構だ。
 ただし、普通の人には読むのが大変だ、950ページ+くらいある。
 この内容ならば、文章の書きようによっては相当読みにくい本になるところだが、この著者は分かり易くくれているので、ゆっくり読み進めればよいと思う(ただし、私は随所で思想の展開を終えないところがあったが、これは私の素養の問題だ)。

 未熟ながらも、この本をここに取り上げられたことはとてもうれしいことだ。