110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

パイドロス(プラトン著)

 哲学書は自分にとっては難解だと思う。
 だから、古典に戻って読み始めても良いのではないかと思う。プラトンの本作品は、啓蒙のために書かれたのか大変読みやすい。現在として賛否はあるが、「イデア論」を元に明快に「善」「美」などの「真実のもの」を問いかけてくる。
 ここでは、当時の「弁論術」を真実を曲げても大衆の支援を得るために使われる技術として、批判している。
 パイドロスは、当時の弁論術を代表するかのように以下の様に語る。
 「将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しい事柄ではなく・・・群集の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには、ほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われるであろうような事柄をまなばなければならぬ。なぜならば、説得するということは、この、人々になるほどと思われるよな事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから・・・(岩波文庫版P93)」
 現代に生きる人はこれを、肯定するのだろうか?それとも、否定するのだろうか?

 「現代」はより複雑な社会になっているようだ、ただし、当時にもこのような事象はあったのだ、ソクラテスの言葉には、
 「・・・最初の予言は一本の檞(かしわ)の木が告げたのだそうだ。じっさい、その当時の人々は、君たち若い者のように悧巧ではなかったから、檞の木の言葉でも、岩のいう事でも、ただそれが真実を伝えるものでありさえすれば、それを聞いて素朴に満足したものだ。それにひきかえ、おそらく君には、語り手が誰であるかとか、どこの国の人であるかといったようなことが、重大な問題となるのだね。なぜなら君は、もっぱらそれがほんとうにそのとおりかどうかという、ただそのことだけを考えるのではないのだから。(P135)」
 先日話をしていて、この批判される側(パイドロス)と同じ意味の事を言っていた。
 すなわち「同じ言葉でも誰が言ったかで信頼度が違う」と・・・

 さらに、ソクラテスの言葉を続けよう、
 「分別をわきまえている農夫は、もし自分が何かの作物の種を大切にして、それが実りをもたらす事を願っているとしたら、その種を、夏、アドニスの園にまいて、八日の間に美しく生長するのを見てよろこぶといったようなことを、はたしてまじめな目的のためにするだろうか。それとも、そもそもそういったことをもし彼がするとしたら、それは慰みや娯(たの)しみのためにこそするのであって、ちゃんとしたまじめな目的のある種の場合には、農業の技術を用い、その種に適した土地にまき、八ヶ月たって、自分のまいたかぎりのものが実を結べば満足する、といったやり方をするだろうか。(P138)」
 
 アドニスの園の種をまけば、簡単に「利益(便益)」が生まれるとすると、その「誘惑」を断ち切れるだろうか。それは「将来の先喰い」ではないのか?
 左様な事を考えました。