ドラマのような解決を望んでいる国民
コロナ禍の状況から1年以上経過し、全く収束が見えない中で、国民は飽きたと言うか、収束できない言い訳を探し始めたようにも思う。
昨今の、政府・自治体批判を伺うと、やっても無駄だとして、その発令を無視するかのような、言説さえ多数を占めて来たように思う。
しかし、政府にしろ、諸自治体にしろ、1年以上前よりも、(一時はよく聞いた言葉だが)知見は増えているはずだし、この災禍を収束したいという目的は間違いないはずだ。
しかしながら、それ応える側、すなわち国民が、ドラマでも見るように、一人の英雄が輩出し、全ての、凡庸な人の思いもよらない方法で、見事に、解決するという、「夢」に侵されているようにも思う。
現実はそうではなく、当初から言われているように、それぞれの人が、他の人に、うつさないように、気をつけることそれだけの話でしかない。
それに、さまざまな、尾ひれ、例えば、経済がどうのこうのというようなものと、たかだか、1年程度の実績で、ある意味、神話化して、自分(国民)の出来ないことは、政府や自治体が悪いからという理由に転化して、納得しようとしているのではないのか?
確かに、政府や自治体の対応で、余り効果がなさそうな対応もあったが、それなら、誰が、彼らの代わりをすることができるのだろうか?
逆に言えば、政府や、現在非常事態宣言が出た自治体の、関係者は、それぞれのできることは精一杯やっているはずだ、手を抜く余裕など無いはずだ。
それがわからないようになったとすれば、この国はどこに向かうのだろうか?
追記:
もうひとつ、日本もしくは、日本人としての観点がある。
今回、中止が叫ばれる、東京オリンピックだが、もとより、2018や2019年のころの世論の騒ぎすぎ状況を私は批判していたのだが、これが、現時点では中止を叫ぶ真逆の世論になっていることが、不思議でしょうがない、経済推進派はあれが経済効果を産まないとは言えないはずで、中止の効果は、随分前に、東京都の都市博を中止した時のことを思い出しても良いのではないだろうか?
まぁ、私としては、中止の措置は、衰退に向かっている我が国の、老化が前倒しになるだけだとは思っている。
しかし、別の観点を考えてもよいのではないのか?
今回のオリンピックは、コロナ禍を制した人類の象徴という、人間賛歌的なお題目もあったのだが、これを、中止すると、コロナ禍を制したはじめての人類の輝かしい偉業を称えるオリンピックは、2022年、北京オリンピックになり(中国は残念なことに明らかに制しているからね)、それが、21世紀のアジアの象徴になる可能性は否定できない。
明らかに、アジアの情勢が、老いた日本から中国へと変わった象徴的なイベントだと、世界的に認識されてもおかしくない(し、実質そうなっている)。
それについては、どうなのか、国民の意思が知りたいところだが、こういうことも、世論では語られない。
そういう面では不思議な国になったと思う。