110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

現代思想(清水幾太郎著)

 本書は1966年初版の岩波全書版、なかなか入手が難しいものかもしれない。
 現代思想と言えども40年前もの事になる。

 なぜ清水幾太郎なのかと言うと、渡部昇一氏の「レトリックの時代」という著作の中に、「さて、日本での修辞学の大家といえば、私は、まず清水幾太郎氏をあげる。・・・」の一文から、一度読んでみたいと思った。そんな事を考えながら、古本屋などを巡ると、そこにあったのが本書だ、そこにあったと言うか、そこで待っていたという感覚に近い。調べてみると、意外にプレミアムがついている本だった。

 内容は、その当時の現代思想とは言え、例えば、哲学思想などを追いかけたものではない、冒頭の「はしがき」にこうある、
 私が『現代思想』で試みたのは、二十世紀のスケッチである。といっても、マルクス主義プラグマティズム実存主義を初めとする現代の有名な諸思想の解説ではない。そういう解説は、既に数多く行われているし、また、私にとって、それはあまり興味のある仕事ではない。私にとって興味があるのは、二十世紀が、十九世紀風の大思想体系の崩壊過程であるという事実である。リアリティの運動の塊であるような、人間生活の全体を包み込むような、そういう実体的で包括的な大思想が次第に分解して行くプロセスに我々は生きている。その事情を或る程度まで説明するのは、科学および技術の発展、経済成長、欲求の解放などの諸事実であろう。

 20世紀はニヒリズムの時代と予言した、ニーチェの言葉をもとに、十九世紀後半から、その当時までの、政治体制を、すなわち、資本主義、社会主義、そしてファシズムについて、歴史的に考察を加えていく。その中で、各体制の背景を考慮にいれながら、「大思想が崩壊」する中で、20世紀の人々がどう対応していくのかを解説している。
 現代から見て、はるかに昔の視点をもつ著書は、逆に、現在と違う感覚を教えてくれる。
 ひとつは、20世紀前半の、イデオロギーの対立やそれに伴う戦争は、資本主義、そして資本主義を越えていくとされた社会主義のいずれもが、国民の生活に対して、有効な解決をもたらすことができなかった事にある。そして、その後、1960年当時に残った、それぞれの体制について、それぞれ共通な事は「インダストリアリズム」であると指摘している、まずは、生産性、産出量の向上というわけだろう。面白いのは、この時点において、既に、資本主義、社会主義と言われた、政治体制を区別する要素の一部が崩れているのことだ。そして、現在の中国の状況について、これは、新しい事実だが、決して新しい状態では無いことが伺える。
 そして、もう一つは、今では奇異な感覚かもしれないが「レジャー化」という視点。これは、20世紀前半の労働者の労働時間ではレジャーをする時間(余暇)がなかった事を示している。そして、それが可能になるということは、当時としては、労働という「有」の時間に対して、非生産的な「無」の時間が増大することを示している。これは、新たな「ニヒリズム」の生産ではないのか?すなわち、20世紀はニヒリズムの(普遍的)状態ではないのか?という問いかけのように思える。
 それは「労働価値説」ような古い考え方ではないのか?と言われるとそのとおりかもしれない。しかし、何か腑に落ちないものがある。最近、時間を埋めるためだけの行為にお金を使っているのではないか。そして、それは、単なる回顧主義なのかもしれないが、以前は存在しなかったものではないのか?
 そういう面で「ニヒリズム」という言葉を考えると、少し、思索することができそうだ。