現代思想(清水幾太郎著)
なぜ清水幾太郎なのかと言うと、渡部昇一氏の「レトリックの時代」という著作の中に、「さて、日本での修辞学の大家といえば、私は、まず清水幾太郎氏をあげる。・・・」の一文から、一度読んでみたいと思った。そんな事を考えながら、古本屋などを巡ると、そこにあったのが本書だ、そこにあったと言うか、そこで待っていたという感覚に近い。調べてみると、意外にプレミアムがついている本だった。
内容は、その当時の現代思想とは言え、例えば、哲学思想などを追いかけたものではない、冒頭の「はしがき」にこうある、
20世紀はニヒリズムの時代と予言した、ニーチェの言葉をもとに、十九世紀後半から、その当時までの、政治体制を、すなわち、資本主義、社会主義、そしてファシズムについて、歴史的に考察を加えていく。その中で、各体制の背景を考慮にいれながら、「大思想が崩壊」する中で、20世紀の人々がどう対応していくのかを解説している。
現代から見て、はるかに昔の視点をもつ著書は、逆に、現在と違う感覚を教えてくれる。
ひとつは、20世紀前半の、イデオロギーの対立やそれに伴う戦争は、資本主義、そして資本主義を越えていくとされた社会主義のいずれもが、国民の生活に対して、有効な解決をもたらすことができなかった事にある。そして、その後、1960年当時に残った、それぞれの体制について、それぞれ共通な事は「インダストリアリズム」であると指摘している、まずは、生産性、産出量の向上というわけだろう。面白いのは、この時点において、既に、資本主義、社会主義と言われた、政治体制を区別する要素の一部が崩れているのことだ。そして、現在の中国の状況について、これは、新しい事実だが、決して新しい状態では無いことが伺える。
そして、もう一つは、今では奇異な感覚かもしれないが「レジャー化」という視点。これは、20世紀前半の労働者の労働時間ではレジャーをする時間(余暇)がなかった事を示している。そして、それが可能になるということは、当時としては、労働という「有」の時間に対して、非生産的な「無」の時間が増大することを示している。これは、新たな「ニヒリズム」の生産ではないのか?すなわち、20世紀はニヒリズムの(普遍的)状態ではないのか?という問いかけのように思える。
それは「労働価値説」ような古い考え方ではないのか?と言われるとそのとおりかもしれない。しかし、何か腑に落ちないものがある。最近、時間を埋めるためだけの行為にお金を使っているのではないか。そして、それは、単なる回顧主義なのかもしれないが、以前は存在しなかったものではないのか?
そういう面で「ニヒリズム」という言葉を考えると、少し、思索することができそうだ。
現代から見て、はるかに昔の視点をもつ著書は、逆に、現在と違う感覚を教えてくれる。
ひとつは、20世紀前半の、イデオロギーの対立やそれに伴う戦争は、資本主義、そして資本主義を越えていくとされた社会主義のいずれもが、国民の生活に対して、有効な解決をもたらすことができなかった事にある。そして、その後、1960年当時に残った、それぞれの体制について、それぞれ共通な事は「インダストリアリズム」であると指摘している、まずは、生産性、産出量の向上というわけだろう。面白いのは、この時点において、既に、資本主義、社会主義と言われた、政治体制を区別する要素の一部が崩れているのことだ。そして、現在の中国の状況について、これは、新しい事実だが、決して新しい状態では無いことが伺える。
そして、もう一つは、今では奇異な感覚かもしれないが「レジャー化」という視点。これは、20世紀前半の労働者の労働時間ではレジャーをする時間(余暇)がなかった事を示している。そして、それが可能になるということは、当時としては、労働という「有」の時間に対して、非生産的な「無」の時間が増大することを示している。これは、新たな「ニヒリズム」の生産ではないのか?すなわち、20世紀はニヒリズムの(普遍的)状態ではないのか?という問いかけのように思える。
それは「労働価値説」ような古い考え方ではないのか?と言われるとそのとおりかもしれない。しかし、何か腑に落ちないものがある。最近、時間を埋めるためだけの行為にお金を使っているのではないか。そして、それは、単なる回顧主義なのかもしれないが、以前は存在しなかったものではないのか?
そういう面で「ニヒリズム」という言葉を考えると、少し、思索することができそうだ。