うるさい日本の私(中島義道著)
帯の紹介文が本書の趣旨になる。
この本の話をある人にしたが、やはり変な人、社会的に問題のある人という印象を受けたように思う。
この騒音について、中島氏は以下の問題点を指摘する。
実は、私自身は、この注意放送について不快感は持たないが、この中の一部には共感を持つ。
これは、主体的か、受容的か、自律的か、他律的かの問題が潜んでいると思う。
バス・電車・デパートからの駅の構内。物干し竿の宣伝まで、けたたましくスピーカーががなりたてる、この日本-。いたるところ騒音だらけ。我慢できない著者は、その”製造元”に抗議に出かけ徹底的に議論する。が、空しい戦いから浮かび上がったのは、他人への押しつけがましい<優しさ>を期待する日本人の姿だった。日本社会の問題点を意外な角度からえぐる、「戦う大学教授」の怪書。
既にして「怪書」にされているのだ。この本の話をある人にしたが、やはり変な人、社会的に問題のある人という印象を受けたように思う。
この騒音について、中島氏は以下の問題点を指摘する。
第一に、一律な注意放送はアアセヨ・コウセヨと言われたくない人の人権を侵害している。・・・
第二に、アアセヨ・コウセヨと言われなければ、みずから行為できない人を産出する。
第三に、膨大なアアセヨ・コウセヨ放送を「聞き流す」耳をつくる、つまり真のメッセージを「聞かない」耳をつくる。
第四に、これが一番の弊害であるが、事故が起こった場合に自分の怠慢をタナにあげてバス会社(など)に責任をなすりつける態度をやしなう。みずから注意するという態度を怠り、あるいは人間としての当然の注意力をもつことを教育せず、「放送がなかったからウチの息子はけがしたのだ」という奇妙な論理を振り回して、バス会社(など)を責める態度をやしなう。・・・自律的に判断し自己責任をとる人々にとっては拷問のような環境をつくりあげようとする。
このような論点を見て、賛否両論であろうかと思う。第二に、アアセヨ・コウセヨと言われなければ、みずから行為できない人を産出する。
第三に、膨大なアアセヨ・コウセヨ放送を「聞き流す」耳をつくる、つまり真のメッセージを「聞かない」耳をつくる。
第四に、これが一番の弊害であるが、事故が起こった場合に自分の怠慢をタナにあげてバス会社(など)に責任をなすりつける態度をやしなう。みずから注意するという態度を怠り、あるいは人間としての当然の注意力をもつことを教育せず、「放送がなかったからウチの息子はけがしたのだ」という奇妙な論理を振り回して、バス会社(など)を責める態度をやしなう。・・・自律的に判断し自己責任をとる人々にとっては拷問のような環境をつくりあげようとする。
実は、私自身は、この注意放送について不快感は持たないが、この中の一部には共感を持つ。
これは、主体的か、受容的か、自律的か、他律的かの問題が潜んでいると思う。
本書は、このような観点から、日本人の持つと思われる、マイノリティの問題、いじめ問題にも言及していくので、興味があれば読んでいただければ良いと思う(あらかじめお断りすると、気分を害される方もいるかもしれないが)。
著者は、この「闘争」の中で経験的に得たのだろうか、随所に、本書を読んで不快になる読者がいることを気遣っている。
そして、私も、本書の中では、確かに争点がずれているようにも思うことがあるが、ひとつ言えることは、本書の中での著者は、非常に理性的に交渉ごとに当たっていると思う、それは、怒りに任せた言葉や態度をすることがあろうとだ。
何故かと言うと、著者の問いかけに対する、会社、行政機関、または個人の回答の方が、かみあっていないのだ、これは、根本的なコミュニケーションの不全だと思う(意図的な歪曲か?)。
その様な状況に気づかないで、本書を読みすすんでしまえるならば、それは、幸せなマジョリティの位置にいるの人だと思う。
そんなことを考えながら読んだ本であった
著者は、この「闘争」の中で経験的に得たのだろうか、随所に、本書を読んで不快になる読者がいることを気遣っている。
そして、私も、本書の中では、確かに争点がずれているようにも思うことがあるが、ひとつ言えることは、本書の中での著者は、非常に理性的に交渉ごとに当たっていると思う、それは、怒りに任せた言葉や態度をすることがあろうとだ。
何故かと言うと、著者の問いかけに対する、会社、行政機関、または個人の回答の方が、かみあっていないのだ、これは、根本的なコミュニケーションの不全だと思う(意図的な歪曲か?)。
その様な状況に気づかないで、本書を読みすすんでしまえるならば、それは、幸せなマジョリティの位置にいるの人だと思う。
そんなことを考えながら読んだ本であった