110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

主君「押込」の構造(笠谷和比古著)

 本書は、当初1988年平凡社刊行のものに改訂増補を施した講談社学術文庫版(2006年初版)を読む。

 おもに、江戸時代、主君の振る舞いに問題がある場合に家臣団が、主君を牢などに「押込」めて強制的に隠居させるという手法があった。
 本書を読み始めるにあたり「民主党も誰かさんを押込めてしまえば・・・」などという不謹慎な文章を練ったのだが、読み進めるにあたってそういう簡単な問題でもないことがわかってきた。
 まず、当時は、各藩の上には幕府という最高権力にして、一見、最高法の拠点があった。
 だから、「押込」するための要件を、最終的に審判するところがあったのだ。
 本書の事例でも、江戸時代初期の「押込」には幕府が介入する場面が見えるのだが「押込」に伴う各藩への(悪)影響が大きい事例が出てきたため、幕府は完全に黒幕と化するのだ。
 それは、「押込」の慣習化とも言えるもので、主君の行動が藩運営に不安感をもたらす場合、一定の手順を踏むことで「押込」を成立させることができるのだ。
 それは、当初、君主を頂点に、人の能力により運営されているとされた藩(現在なら、会社等の組織)が、逆に、藩という器の中に、それぞれの役職として、人が配置されるという体系に転化したということが一つの原因のようだ。
 だから、藩体制を維持するためには、その君主すらも更迭(押込)できるということになったわけだ。

 一見、それはよい事の様に思えるのだが、そこには、ある落とし穴がある。
 それは、藩を維持するためには、革新的な組織変更を目指す君主が出現し、また、その君主が有能であろうとも、周りの家臣団が旧態的な思想をもっていたばあい、「押込」に遭遇するのだ。

 私の思い入れだけなのだが、本書でとり上げられた(尾張徳川宗春などは相当革新的な思想の持ち主であり、現代風に考えれば、不景気で皆が金を使わなくなるので、更に悪循環に陥り不景気になるのだから、逆にどんどん使うことで経済を活性化しよう・・・てなわけで、自らいろいろ手を講じるのだが、幕府の倹約政策に抵触したということで「押込」ではなく、幕府により「隠居」申し付けられたということだ。
 だから、そういう状況下では、現状維持の政策が跋扈するようになるのではないだろうか?

 さて、短絡的なまとめ方に入ると、君主から藩へ、人から組織に、その権力の中心が変わったこととともに、それまでは、能力の卓越性が一つの基準だったのが、無謬性にかわったことで、藩自体のダイナミクスが薄れてしまったのではないだろうか?

 そう、結論的には、今、民主党が押込するだけでは、本当の問題解決にはならないというわけ。