宇宙のエンドゲーム(フレッド・アダムス、グレッグ・ラフリン著)
本書は、2002年徳間書店より刊行されたもの、私は、その後ちくま学術文庫版化したものを読む。
無限に近く「大きいもの」や「小さいもの」を考えることは殆ど不可能だという趣旨のことを、どこかに書いてあったような気がする。
宗教などの教理も、無限に近い数字が出ると、人智の及ばぬものとして、納得してしまうとこことがある、無は有で空であったり、非知であったりするところ、そこに、無限があるのだ。
しかし、本書では、その考えるだけで疲れ果てそうな、この宇宙の時間的な涯てまで、私たちを連れて行ってくれる・・・ただし、現実の私たちは、そのほんの入り口で存在しなくなるのだが。
ここに書いてあることは、物理学の知識を基にした、科学的な記述である。
しかし、何か、形而上的な、得体の知れない、理解を超えたところに、導かれてしまうのだ。
そして、長い時間が経過することで、もしかすると、この世界を支配する、物理的な法則まで変わってしまう可能性さえ示されると、自分の足元が(今)存在することを、もう一度確認してしまうのだ。
(そして「ほっ」とするのだ)
そして、わが身の一生など、ほんの一瞬であることを、改めて感じるのだ。
いや、陽子さえ崩壊する様なタイムスケールなので、殆ど0に近い時間なのだろう。
そんな事を考えるのだ。
無限に近く「大きいもの」や「小さいもの」を考えることは殆ど不可能だという趣旨のことを、どこかに書いてあったような気がする。
宗教などの教理も、無限に近い数字が出ると、人智の及ばぬものとして、納得してしまうとこことがある、無は有で空であったり、非知であったりするところ、そこに、無限があるのだ。
しかし、本書では、その考えるだけで疲れ果てそうな、この宇宙の時間的な涯てまで、私たちを連れて行ってくれる・・・ただし、現実の私たちは、そのほんの入り口で存在しなくなるのだが。
ここに書いてあることは、物理学の知識を基にした、科学的な記述である。
しかし、何か、形而上的な、得体の知れない、理解を超えたところに、導かれてしまうのだ。
そして、長い時間が経過することで、もしかすると、この世界を支配する、物理的な法則まで変わってしまう可能性さえ示されると、自分の足元が(今)存在することを、もう一度確認してしまうのだ。
(そして「ほっ」とするのだ)
そして、わが身の一生など、ほんの一瞬であることを、改めて感じるのだ。
いや、陽子さえ崩壊する様なタイムスケールなので、殆ど0に近い時間なのだろう。
そんな事を考えるのだ。