全体主義の時代経験(藤田省三著)
本書はみすず書房1995年刊行のもの。
本書をBOOKOFFで見つけたときは狂喜した。
早速、読んでみる。
やはり、日本という国は戦後のどこかの時点で何か変わったのであろうと思う。
本書では、それが「安楽」という名の「全体主義」が蔓延したものだと指摘している。
「安楽という名の全体主義」という言葉使いが少し過激であり拒否感を持たれるかもしれないが、それが何を指すかは、先ほどの地震でのことを思い出せばよい。
そこでは、人の命よりも発電所のコストを勘案して事故を増長し、今度は、賠償となると、一企業では負担できないので、政府と結託して税金として徴収する、更には、電気料金の値上げという言葉さえ出てくる始末。
そういうことが、まかりとってしまう状況、これは、安楽という状況にこびりついている支配の構図だ。
そういう状況に、国民が慣らされてしまったのだ。
そう、政府、政治は、一見国民のためのように見せてはいるが、その現実は国民不在なのだ、いちおう、選挙での得票というセレモニーがあるので、それらしく振舞っているが、そこには、権力の構図が見えてくる。
もう、目を覚ます時であろう。
これは、直感なのだが、現在の日本の社会システムは、不死の人、すなわち、法人のためにあるのではないのか?
だから、死ぬべき人、現実の人間の価値が貶められているのではないのか?
そして、法人が倒れないという目的のために、様々な事象が動いているのではないのか?
本書をBOOKOFFで見つけたときは狂喜した。
早速、読んでみる。
やはり、日本という国は戦後のどこかの時点で何か変わったのであろうと思う。
本書では、それが「安楽」という名の「全体主義」が蔓延したものだと指摘している。
「安楽という名の全体主義」という言葉使いが少し過激であり拒否感を持たれるかもしれないが、それが何を指すかは、先ほどの地震でのことを思い出せばよい。
そこでは、人の命よりも発電所のコストを勘案して事故を増長し、今度は、賠償となると、一企業では負担できないので、政府と結託して税金として徴収する、更には、電気料金の値上げという言葉さえ出てくる始末。
そういうことが、まかりとってしまう状況、これは、安楽という状況にこびりついている支配の構図だ。
そういう状況に、国民が慣らされてしまったのだ。
そう、政府、政治は、一見国民のためのように見せてはいるが、その現実は国民不在なのだ、いちおう、選挙での得票というセレモニーがあるので、それらしく振舞っているが、そこには、権力の構図が見えてくる。
もう、目を覚ます時であろう。
これは、直感なのだが、現在の日本の社会システムは、不死の人、すなわち、法人のためにあるのではないのか?
だから、死ぬべき人、現実の人間の価値が貶められているのではないのか?
そして、法人が倒れないという目的のために、様々な事象が動いているのではないのか?